バドミントン

抽象度が高い攻撃というのは、何でこのタイミングでこのショットなんだろうという「意外性」とやられてみれば「自然」に思えるという表面的には矛盾した印象を纏っている。
パターン化できない攻撃を仕掛けてくるのだが、その中に「個性」のようなものがあり、一貫してもいるのだ。
スポーツにおける身体化された抽象性は、自由自在にも思えるし、体系的にも思える。
新しい状況や問題を作り出し、それを解決するといえばいいだろうか?
スポーツが素晴らしいのは、こうした抽象性の存在を実現しているところにある。