バドミントン

上手い人とバドミントンをすると、まず最初に感じることは「何をやっても無駄」「全てを見抜かれている」「盲点を付かれる」「立ち尽くすしかない」「何もできない」「もはや笑うしかない」「同じバドミントンをやっているとは思えない」といった印象を受ける。
自分より下手な人とやる時は逆に「自分」のことがそう見られているんだろうと感じる。
相手がどうやって自分に勝っているのかさえ分からない。どこを直せばいいのかも分からないのだ。
スポーツに「神」が存在するのはある意味当然なのだ。
かけ離れた「差」が絶対的に立ちふさがるからだ。
しかし、私としては、この事態を「抽象度」として捉え返してみたいと思う。一見多彩にみえる攻撃パターンや気まぐれで予想もつかない攻撃の組み立てを抽象度の高い実は「単純」な攻撃ではないか思えるからだ。
相手の攻撃の先が読めるとか、パターンを見破る能力とかではなく、パターン化できないところまで「抽象度」が上がってしまっていると考えるのだ。
このアイデアは、少なくとも私には説得的な感じがする。
例えば、長島が松井にバッティングの指導する時の言葉は、感覚的といわれているが、むしろ抽象的と考えるべきではないか?
例えば、相手の「硬さ」を見極めて、こちらの「硬さ」を調節するということをしているだけのような気もするのだ。
この「硬さ」といわれるものが、「身体的でもあれば精神的でもある抽象的な硬さ」なので、もちろん大抵のプレイヤーにとって、こうしたアドバイスは全く「無意味」な言葉になる。
また、抽象度が高いので良くて精神論になるだろうし、悪ければ有害な効果しか生まないかもしれない。
もちろん、パターン分析をすり抜けるので、分かりやすくもない。