バドミントン
バドミントンの攻撃パターンを現実に応用可能にするには、やはり攻撃パターンをグループに分けて重みをつけることが必要だと思うようになった。今のままでもそれなりのサポートやアドバイス機能はあるのだが、これだけではここぞという時、勝負の時にどの攻撃にすべきかという瞬時の判断が一瞬遅れるのだ。
数学的には、以前に定義した攻撃パターンに対して「位相」を入れてやればいいだけなのだ。
要するに攻撃としては左右と遠近と緩急という八通りに限定し、この組み合わせが攻撃のバリエーションとなるわけだ。
その攻撃のバリエーションの中で、勝負手として有効なものをグルーピングし、攻撃ごとに攻撃力の高い攻撃へとシフトしていくように「位相」をいれるのだ。
こうしたやり方は相手の攻撃パターンの分析つまり弱点の発見や強みの発見にもつながり有効なのじゃないかなという気がしてきている。
上手な人は自然とこうした「頭脳」を身に着けているように思える。つまり頭がいいのだ。
こちらは、「計算練習」をして早く正確な判断が下せるように頭を訓練する。
頭に余裕があると体もついていきやすくなるので、いいと思う。
シュミレーションのようなものだが、もう少し緩やかなコーチングとかアドバイスに近いものになるのではないか?
とりあえず、位相は大事だ。
バドミントン
抽象度の高いということを具体的に言えば、相手がバシバシきたら、バシバシ返してもいいのだが、こちらはひょいとかひょひょいのひょいで返すといい場合が多いという言い方になる。
私は、上級者にこの手で何度も翻弄された。
感覚的で幼児的な表現に思えるかもしれないが、そうでもない。結構奥が深いのだ。
これを抽象性と言ってみた。
この方向に「希望」がありそうだという期待に満ちているのだ。
決してその「正体」が全面的に現れる事は無い。
むしろ、ほとんどが潜在的なままに留まるという意味では、果たして存在しているのかさえ疑わしい何かがある。
体中に油を塗りたくっているのではないかと思える程捕まえづらい、朝青龍の身体のイメージとでも言えば、相撲ファンには納得していただけるだろうか?
あの「つかみにくさ」こそスポーツの抽象性を表している。
何としても「擁護」しなくてはならないと思っている。
バドミントン
抽象度が高い攻撃というのは、何でこのタイミングでこのショットなんだろうという「意外性」とやられてみれば「自然」に思えるという表面的には矛盾した印象を纏っている。
パターン化できない攻撃を仕掛けてくるのだが、その中に「個性」のようなものがあり、一貫してもいるのだ。
スポーツにおける身体化された抽象性は、自由自在にも思えるし、体系的にも思える。
新しい状況や問題を作り出し、それを解決するといえばいいだろうか?
スポーツが素晴らしいのは、こうした抽象性の存在を実現しているところにある。
バドミントン
上手い人とバドミントンをすると、まず最初に感じることは「何をやっても無駄」「全てを見抜かれている」「盲点を付かれる」「立ち尽くすしかない」「何もできない」「もはや笑うしかない」「同じバドミントンをやっているとは思えない」といった印象を受ける。
自分より下手な人とやる時は逆に「自分」のことがそう見られているんだろうと感じる。
相手がどうやって自分に勝っているのかさえ分からない。どこを直せばいいのかも分からないのだ。
スポーツに「神」が存在するのはある意味当然なのだ。
かけ離れた「差」が絶対的に立ちふさがるからだ。
しかし、私としては、この事態を「抽象度」として捉え返してみたいと思う。一見多彩にみえる攻撃パターンや気まぐれで予想もつかない攻撃の組み立てを抽象度の高い実は「単純」な攻撃ではないか思えるからだ。
相手の攻撃の先が読めるとか、パターンを見破る能力とかではなく、パターン化できないところまで「抽象度」が上がってしまっていると考えるのだ。
このアイデアは、少なくとも私には説得的な感じがする。
例えば、長島が松井にバッティングの指導する時の言葉は、感覚的といわれているが、むしろ抽象的と考えるべきではないか?
例えば、相手の「硬さ」を見極めて、こちらの「硬さ」を調節するということをしているだけのような気もするのだ。
この「硬さ」といわれるものが、「身体的でもあれば精神的でもある抽象的な硬さ」なので、もちろん大抵のプレイヤーにとって、こうしたアドバイスは全く「無意味」な言葉になる。
また、抽象度が高いので良くて精神論になるだろうし、悪ければ有害な効果しか生まないかもしれない。
もちろん、パターン分析をすり抜けるので、分かりやすくもない。
バドミントン
昨日バドミントンをした。
相手が弱いせいもあるが、割と勝った。
相手の弱さというのは、どこによく現れるかというと「負けパターン」というものが存在してしまうというところにある。
同じ攻撃の組み立てで同じミスをしてしまうのだ。
通常、互角の相手では、同じパターンの攻撃は通用しないかしにくくなるので、パターンを変化させて相手からポイントを取る必要がある。
ところが逆に勝つためには、相手に先を読まれては駄目なことも事実だ。
例えば、2、1ぐらいの比率で左右に打ち分けるとかして勝ったとしても、同じ手は使えないので、1、2の比率や2,2ぐらいにパターンをかえてみたりすることになる。もちろん緩急もつける。
揺さぶることになる。
お互いやりあっているとこの揺さぶりが通用しないなと思うことがある。
ひらめかないと駄目という局面になるのだ。
アマチュアでもこのレベルにいけるところがバドミントンの面白いところだと思う。
このとき、確かにひらめくとか偶然が勝敗を決するように見える。
ところが、最近そうでもないのかなという気がしている、
つまり勝ちパターンのひらめきとは、実は勝ちパターンの抽象度が上がっているということではないかと思うようになった。
バドミントン
バドミントンのダブルス場合、サイドバイサイドで守備的な場合とトップアンドバックで攻撃的な態勢に別れる。これは、こちらがどう返せるかに依存している。相手のスマッシュを予想できるクリアだとサイドバイサイドで守備的になる。ヘアピンならトップアンドバックだ。スマッシュで決められることはなく、相手がクリアしてくることが予想できるからだ。
サービスがショートサービスなら、当然トップアンドバックで攻撃的にする。
問題は、このシステム変化をスムーズに行えるかが問題で、判断が遅くなったり間違えたりしやすくなる。
この辺も具体的な状態に切り分けて分析しないとだめだろうなと思う。
ほぼ反射的に体は動くようになってはいるが、ポジショニングがちょっとなと思うことも多い。