体験

やってみなければ、何がどうなるかまったく分からないというのが、体験の本質と考える。
そう考えると、必ずしも仕事をしたり、旅行をしたり、ご飯を食べたり、SEXしたり、マラソンしたりが体験だとは限らない。
意外な出来事や出会いや展開があれば、それは体験といえる。
体験が深化するという時、この意外性が他の新しい意外性によって置き換えられ、かって意外だったものは、日常的な習慣になっている。
より見通しのよい場所に移動したといえる。
また、意外な体験を現実の空間や時間に限定する必要はまったくない。夢やゲームやフィクションの中でも、体験することもあれば、体験しないこともありえる。
だから、バーチャルだとかリアルだとかの区別を後生大事にしている連中は、「体験」の何たるかを「体験」していないと結論できる。
リアルは必ず体験で、バーチャルは必ず現実逃避だとはいえない。

私はかってそう考えていたところがある。

リアルに現実逃避することもあるし、バーチャルに体験することもある。
リアルに現実逃避するとは、習慣化してしまい安心しか生み出さない状態だ。
バーチャルの世界にも、この種の習慣化は存在する。
都合のいい夢をみているようなものだ。
意識と意識以外のモノとの直接的なコミュニケーションは、常に意外な体験を産み落とす。
意識が自閉しようとすることと習慣は同義だろう。
中毒や依存も習慣と同類だ。
意外な体験に対して、意識は常に抵抗を示す。
眠くなったり、いらいらしたり、怒ったり、忘れたり、無意味や無価値のレッテルをはり過小評価しようとする。
もちろん、それなりの合理的理由はある。
こうして人は、「体験」から遠ざかり、「体験」に恐れと憧れを持つ。
昨日の「体験」を思い出しながら、こんなことを思った。