説明責任と心の闇

新聞用語である。
定義があいまいな割には、もっともらしい法律用語らしきものを振り回すという意味で、例の「裁判所の方から」来るというちゃちな振り込め詐欺の手口と似ている。
まず、説明責任という場合、まず妥当な説明体系とでも言うものが、存在しており、この説明体系を個別の具体的なケースに適応することが、説明責任を果たすことだとしよう。
問題は、妥当な説明体系とは何か?である。
説明責任をどうのこうのというなら、まずどのような妥当な説明があるかのかをまず説明する責任があろうと思う。
そうした努力もしないまま、「それじゃ誰も納得しないし、説明になっていない。」と裁判官のように裁くとしたら、それは単なる集団リンチである。
権力者を叩いて何ぼのマスコミだから、仕方が無いと済ましていいものかと思う。
もしマスコミが権力犯罪を見出したのなら、説明責任ではなく、刑事責任こそ追及するべきだろう。
それが不可能なら、疑わしきは、罰せずという近代法の理念こそ尊重すべきだと思う。
これは、相手が権力者でも同じことだ。
心の闇となるとなお悪い。
これこそ、説明責任の放棄である。
文学的などというのは、文学に失礼だろう。
単なる紋切り型、思考停止だ。
心の闇と言う同じ人間が、説明責任を追及する。
本人にできないことを、他人には要求するわけだ。
なんとなく聞き逃していたが、我慢できなくなったので書いておく。