ガラパゴス化

日本の携帯電話がガラパゴス化しているとよくいう。
日本という特殊な風土に過剰適応した結果、世界市場の標準から外れてしまったのだという。
儲けようと思えば、この世界標準に焦点をあわせるのが筋だから、このガラパゴス化は、企業的には拙い戦略となる。
ただ、もし世界がガラパゴス化するならば、日本の携帯電話の技術も陽の目をみる可能性がある。
基本的に日本の技術の強みは、日本市場という世界一過酷な地方選抜を勝ち抜いたことによって生み出された。
なぜ日本市場は、もっとも過酷な市場なのか?
それは、日本市場には、大勢のヘビーユーザーがいるからだ。
彼らは、値段やデザインもさることながら、機能を重視する。とりわけ、新機能に敏感に反応する。
彼らには、未来を創造する力がある。
未来を予言する力がある。
「神」といってもいい。
企業のイノベーションへの投資を容易に回収できる環境があるのだ。
日本が国家として生き残るためには、このヘビーユーザーをマスとして維持することが何よりも重要だと気が付く。
今回、政権選択選挙で欠けている視点は、こうした開発、創作環境としてのヘビーユーザーの存在をいかに維持、拡大していくかという視点だろう。
一人の天才の背後には、少なくとも数千のヘビーユーザーあるいはファンがいる。
彼らを保護する。
育成する。
という視点が国家の長期戦略として必要だ。
私は最近「新国家主義者」になろうかと思っている。
君が代だの、日の丸だの、戦争責任だのといえば、愛国的だと思っている連中にうんざりしているからだ。
ゆりかごから墓場までタダで面倒みるという国家ならば、その国を誰に強制されること無く誇りに思うだろう。
国家の側も国民にそれだけの投資をする義務がある。
元はといえば、国民なしに国家など存在しないのだから。