介護について4

中年の男が、老いた母親と二人で暮らしている。
母は、認知症を患っている。
二人の生活は母の年金によってまかなわれていた。
男は、決まった仕事がなく、仕事が無いときはパチンコをしたり競馬をしたりしてすごしていた。
男は、母に毎日弁当を買い与えていた。
ある日男は逮捕される。
母を虐待し、重症を負わせた罪だ。
彼は一人息子だった。
確かそんなニュースが載った。
母は、殺されたかもししれない。
よく覚えていない。
その時、虐待する息子というありがちな状況の一例といった扱いだったと思う。
ひどい息子だねということのようだった。
母の年金目当てのぐーたらの暴力息子という「お話」だ。
私は、なぜか彼が毎日母に買っていたという「弁当の中身」が気になった。
毎日同じだったのか。
安いものなのか。
味噌汁はついていたのか?
たまには、母の好きなお菓子でも買ってやったのか?
なんとなく、パチンコで勝った時などは、豪華な弁当を買ったのだろうと思われて仕方がなった。
この悲劇に登場しない人物がいる。
それは「息子の嫁」だ。
親を虐待する順番は、まず息子、次が息子の嫁というデータを見たことがある。
なぜ、息子には「嫁」が来ないのか?
仮に「嫁」が来たとして、それがなぜ「鬼嫁」になるのか?
何故、暴力が病気の老親に向かうのか。
老親に向かわない場合、それは介護する人自身に向かって発揮される。
介護者の自殺も後を絶たない。
さらに、介護を引き受ける介護職員の給料は、世間並みの水準から大きく下がる。
社会的評価が低すぎる。
これは、相変わらず「本来」は「親」は「長男の嫁」が見るべきだという残存する意識の現実的な「効果」である。
この意識は、広く薄く共有されている。
どう老いるかの新しい形が、どう死ぬかの形がみえないのだ。