宵越しの金

江戸時代、粋な江戸っ子は、宵越し金は持たなかったという。
江戸の庶民は、腕に覚えのある「職人」達だった。
無数の武家屋敷は、安定した「普請」需要を生み出し、賃金も良かった。
永遠に続くかと思える安定した世界と勘違いしてもおかしくない。
仕事が終わると、吉原で女を買い、床屋でたむろし、火消し仲間と夜を過ごす。歌舞伎、落語も嗜む。
今の職人よりはるかに、文化的で優雅な生活だ。
文化は貴族や坊主のものと決まっていた平安。
武士が文化の担い手として登場する室町。
そして、町人が主導する江戸。
これは、文化的には、民衆の「勝利」と呼べる。
勿論、江戸だけの特殊な状況だった。
ただ、それが時代や空間を超えて生き延びたのは、稀有なことだ。
粋な江戸っ子は、文化の創造者ではなかったが、そのヘビーユーザーだったことは明らかだ。
このコアの作家達を取り囲むヘビーユーザー達が保育器にように作家を大きく育てたことは明らかだ。
そこでは、「宵越しの金」=貯金は、文化的な「不感症」として「野暮」といわれたのだ。
現在、消費せず貯金に励む若者達が増えているという。
江戸が可能にした「貯金」の否定は、今となっては「謎」めいている。
我々は、随分「野暮」になったものだ。
デイトレーダー辺りが、その日暮らしの生活をするという「粋」に一万人ぐらいの規模で、目覚めれば、化政文化程度の「普遍性」に達するだろうと思うのだが、きっとさらに増やそうという「野暮天」が多いのだろうと思う。