続アメリカと銃

日本で銃を所持し武装すると言えば、物騒な感じがする。
しかし、自分の目の前で、自分の生命や家族や財産が不当に奪われようとしている時に、「銃」は立法でもあれば、司法でもあれば、行政でもあり得る。銃さえあれば、少なくとも反撃できる。そして、許しがたい行為を確定し、判決を下し、刑を執行する可能性が手に入る。
やられっぱなしという最悪のカオスに秩序を取り戻すために必須のアイテムが「銃」なのだ。
アメリカで陪審員制度が採用されるのも、この銃の所持と同根だ。法律の専門家という国家が判決を下すのではなく、一般市民が判決を下す。ここでも、強い個人をサポートする国家という構図が見て取れる。
理念的には、何が正しいかを決め、それに基づいて裁き、実行する権利が個人にある。
当然、視野が狭く独善的な「正しさ」ではあるのだが、それは「正しい」とされる。
素晴らしくわがままで、でたらめであることが保障されている世界こそアメリカなのだ。
銃規制の法律が期限付きの立法であるのも、自然に思える。銃の所持という基本的な権利をいかなる形でアレ制限すべきではないと思っているからだ。