続アメリカと銃

 水不足の時に雨乞いがまったくの迷信で不合理かというと
それは何ともいえない。
 バタフライ効果で、雨乞いという儀式が増幅され、その人たちの儀式が雨をふらせないとは言い切れない。また、古代的知性が気象の変化の微妙さを彼等なりに直感していたといえなくもない。ちなみにバタフライ効果とは、蝶がひらひらさせるぐらいの些細な違いでも、長期的には天気が晴れから雨へと変化しうるという現象だ。ドミノ倒しみたいなイメージでもいいかもしれない。
 例えば、無限を考える。そんなものはこの世に存在しないのだから、馬鹿げている。誰一人見たものはいない。迷信の類いだろう。人間は有限だ。どう考えてもあるいは考えていること自体が人間が有限である証拠といえる。有限の人間には、「一つ大きい次の数」が存在するぐらいがせいぜい許されると。
しかし、それをいうなら「零」とは何か?そもそも零の対象は「ない」。
。これも当然迷信の類いだ。しかしそうなると負の数も危ない。幼稚園児に人気のある「自然数」だけに制限したくなるのも無理は無い。
 もっと言えば、自然数だって本当に自然かよと言いたくなる。
 ここまでくると赤ん坊のレベルではある。
 バグる脳では、宗教、政治とりわけ選挙、コマーシャル、経済活動での脳のバグを告発している。しかし、そういったバグるところが、愚かしくも人間らしい気もするし、また全く無意味とはいえない魅力もある。創造性というものが、例えば零や無限の発明のようにどこか不自然なものであるのは、「自然」に思えるのは私だけではないはずだ。
何もない馬鹿げたものがバグなら、バグしかないだろうし、バグの中からバグらしからぬものを拾い上げて実用に利用しているということだろう。あらかたは、ガラクタでお荷物ではあるが、思わぬ時に思わぬところで、変に役に立ったりするのだ。
皆さん、経験済みだろう!