バドミントン

スポーツは、生物的アニマと見なされているという話に戻る。
生物的なアニマは、
「都合のいい女、あるいは誰とでも寝る女、娼婦。これは、独身レベル」と例示した。
フェミニストから問題視されるのもこのレベルで、独身の男の性欲を糧に膨れ上がった「妄想」であり、非現実的だ。
これに対して、
ロマンチックなアニマは、その言葉に反して現実的だ。なぜ、これをロマンチックというかは、後で議論する。とにかくスポーツを生物的アニマからこのロマンチックなレベルに移行させることがさしあたり目標になる。スポーツと本気で「恋」をすることだ。
ロマンチックなアニマは、
「これは、対等な関係での恋人同士であり、この人のためなら世界の中心で愛を叫んでしまうほどである。勿論、恋が終われば、幻滅に終わる。一応家族レベルとしておく。」

村上春樹の小説の主人公が、デートに出かける前にマスターベーションをして出かけるシーンがあったような気がする。なぜ、この主人公はマスターベーションをするのだろうか?
「ロマンチックな恋愛」に、「邪魔なセックス」をあらかじめ排除するためだろう。セックスは、恋愛の「中断」、「失敗」だからだ。別な言い方をすると恋愛は、セックスの終わったところ始まるからだ。セックスしか知らない男、認めない男は、「恋愛」の存在を知らないか知らない事にしているといってもいい。

生物学的には、セックスしか実在しない。
生物学には、強姦と恋愛を区別する事が出来ない。だから「まとめて」交尾行動という。当然恋愛は、生物学的には、非現実的で、ロマンチックというレッテルを貼られる。だって存在しないんだものという具合。
フロイトユングの違いといってもいい。セックスならフロイト、恋愛ならユングだろう。フロイトは恋は、交尾へと続く道の楽しい「道くさ」、ユングなら恋は、道草としての道そのものだ。
どちらが現実的かは、恋をしたことがあるものなら自明な気がする。