バドミントン

日本での資本主義の精神の基盤になったのは、予定説ではない。予定説の代わりに、「道」が既にあったからだ。
求道的で禁欲的な精神は、日本人にはお馴染みで、剣道、柔道、茶道、華道と道だらけである。習い事は全て「道」といっていい。この基盤の上に日本の資本主義が成立した。西洋起源のスポーツもやはり、「道」として解釈されたのは、自然な成り行きだったと思う。
 そこで、予定説と同じく、道に対するスポーツ的解釈をする。道とは道なき道を進むものであると同時に、それは道草でもあるということ。これだけである。
wikによると、「道草(みちくさ)とは、目的の所へたどりつく途中で、他のことにかかわって時間を費やすこと。」さらに踏み込んだ記述もある。
「環境心理学、環境行動論を専門とする水月昭道が道くさについて研究しており、8年ほどフィールドワークによって実証的に観察データをとり、それを研究成果としてまとめあげ2006年に刊行した。それにより判明したことは、大人が主張する上記のような通念や固定観念というのは、事実に反しており、実際には道草にはさまざまな価値・効用があるということであり、道草は子供の精神の成長や子供の社会化に役に立っている、ということである。

2007年(平成19年)4月に横浜で行われた《こども環境学会》の大会では、特別シンポジウムのテーマとして「道草のできるまちづくり」が選ばれた。

日本では(高度成長期などに)大人の都合しか視野に入れず、自動車優先の、子供たちが遊ぶこともできないような、殺伐とした道路で構成された街ばかりが作られてしまったが、子供たちの健全な成長を考えれば、子供も安心して道草ができる街づくりがなされているほうが望ましい、と考えられるようになっている」
実に正論で、さらに他の「道」に対しても一般化できる。
日本の「道」に対するスポーツ的解釈であり、日本の「道は道草でもある」と言うことは、その道の人たちによって、もっと自覚されて良いことだ。
なお、水月昭道氏は、浄土真宗本願寺派の僧侶でもある。
氏の更なる精進に期待したくなる!