バドミントン

 プレイが微妙であればあるほど、競技レベルは高い。微妙なプレイとは、要するに審判の判断を仰ぐことによって決まる勝負と言い換えてもいい。確かに審判は常に存在しているのだが、審判に皆が注目しその審判が決定的な意味を持つ場合は割とマレだ。実は、審判でさえ迷う場合も多いと思う。オンラインぽいがアウトのようでもある場合なやましい。審判が常に正しいとは限らないが、というか常に間違っているのかもしれないが、審判の判断はとにかく正しいと「みなしす」ことに決まっているだけのことだ。審判の判断が正しかったり正しくなかったりするのでなく、審判の判断は常に正しいのだ。審判のもつ独特の権限は、「神」と類比している。審判が老賢者だというのは、かなり分かりやすいと思う。ただし、そういう役回りだということに過ぎないということ。バドミントンという競技をなりたたせるための、一つの項目というか、必要条件というか、契機ということでしかない。
 分析心理学では、老賢者は、困ったプレイヤーに助言や導きや方向を与えると言うことになっている。これは、むしろ監督やコーチの仕事ではある。確かに、そうとも言える。監督やコーチが、審判としてのふさわしい判断力を基盤にしていると考えれば、いかえれば、敵と味方から離れた第三者的な視点、利害を無視し、結果や事実のみから判断する資質が必須と考えれば、審判の持つ意味あいはやはり老賢者の本質だろうと思う。結果や事実に対する、冷静さとか客観性とかその判断のすばやさのことだ。フィードバックの的確さといってもおなじこと!!