知覚の手段としての想像力のエクササイズ

3RDB、3EGB、3EGBA、ちょっと指曲げ、「私は、知覚の手段として想像力を使う方法を学んでいます」と意図を定める。
この意図を定めるプロセスは、人間というスーパーコンピュータに通用する高次プログラム言語ということではないかと思っている。別名、「祈り」でもいいような気もする。
この一見ばかげて、無意味に思える祈りもやってみると確かに必要なことのように思う。
朦朧としていて記憶が定かではない状態なので、このように祈るとそれをアンカーにして意識を維持できるからだ。このエクササイズ中しばしば、「あっち」に引きずられそうになる。その時この宣言の周りに再び意識が集まってくる。
「俺何しているんだっけという瞬間」にこの宣言が浮かびこの目的の周りに復帰し、再び出動まで待機できるのだ。
だから、見かけほどばかげては居ない。むしろ必須だろう。 
 昔、いつも正確に同じ時間に目覚めてしまい不思議な気がしたことを思い出した。
 それから、親、ペット、友達に愛のエネルギーを投げかけ、その様子を心に留めるというものだ。
 やってみた。
 エネルギーを送ると、親はニコニコしていた。ペットはいつもの台の上で尻尾振っていた。友達は少し笑っただけだった。彼の下宿で、少し暗い感じがした。布団も敷いてあった。どれもカラーだった。割とはっきりしている。ちょっと動きがある。
 少し奇妙なことがあった。まったく関係ない映像が鮮明に浮かんだ。
 眼鏡をかけた、黒い髪、黒い目の中年の男の斜め横から見た顔だ。笑いかけてきた。誰だ?まるっきり見たことない人の顔だった。ぬーッと出てきた。
 著者によるとこうした現象は、今後頻繁に起こるようだ。
 よく作家が、想像上の人物がかってに台詞を喋り始め、勝手に物語が始まるというが、満更嘘ではないと思う。
 キャラが乗り移ってくる、「憑く」というのは、ある話だ。
 自分でも想像もしなかった展開に、当の自分が一番驚いている。
 でもこれって、普通のことでもある。
 人は多かれ少なかれ、あっちに乗り移り、こっちに乗り移りやっていると思う。