続知覚の手段としての想像力のエクササイズ

知覚の手段としての想像力のエクササイズでは、これ以後、想像的に味覚、触覚、視覚を利用するエクササイズが続く。
 オレンジを食べ、花を想像して触る。
 瞑想状態で、想像のラジオを聴き、選局してその変化を調べる。
 実際に鼻に触り、その感触を思い出す、耳たぶに実際に触り、その感触を思い出す。
 一挙にやってみた。
 やった感想としては、ラジオのエクササイズが面白かった。このエクササイズは、よく考えられていると思った。「気づき」やすいのだ。
 やってみればよく分かる。ラジオから流れる声を聞いていると、それが自分の声ではなく、それらしい声なのだ、女性ボーカルなら、その声はその女性ボーカルの声として想像上の聴覚に響いてくる。その声を遅ればせに追いかけながら、自分の声で歌っている自分がいる。もちろん、実際には自分もその女性ボーカルの声もどちらも耳に聞こえてくる声ではない。
 やってみると当たり前のことではあるのだが、こんなことでもしないと想像力を知覚として利用するということの意味がわからなかったと思う。
 味覚とか触覚の方は、なんだかぼやとしていて、ラジオのエクササイズほど腑には落ちなかった。
 とりあえずやったという程度だ。
 思いついたことがある。
 自分のなかで、「私」と「俺」とを使い分けている。
 「俺」という場合、男ッぽい、無鉄砲、感謝の念が足りない、一匹狼、喧嘩好き、自己中といったキャラ兄さんである場合が多い。
 「私」という場合、この「俺」のことを「俺様万歳」だねとかなりバカにしている。少し大人で、慎重、臆病なところもある。知的であまり行動的ではない。面倒くさがりで、批評家的だ。大抵「俺」は「私」に頭が上がらないが、行動力とか決断力では「私」は「俺」にはかなわない。「私」は「俺」の後始末とか面倒をみてやっているという関係にある。
 一人漫才のようなところがあると思う。
 このように冷静に分析するのは、いつも「私」の役目である。
 「俺」のほうは、「私」が分析しても「「そうなの」「そうなんだ」と適当に合相槌を打つが、まるで聞いているらしくない。
「俺」はいつも次は何をいつしようかばかりに夢中なのだ。
懲りない奴というのが、「俺」に対する「私」の見解である。
この程度の分裂は、誰しもあると思う。
探せば、何種類かの自分がいる。
これで、パート2が終わり、ついにパート3である。
少し読んだが、ここでいわゆる「守護霊」とのコンタクトが重要になるようだ。
やっと怪しげな世界に突入である。
割とまめにやったと思うので、ぜひ守護霊様にお会いしたいと思う。