死刑制度

なぜかいきなり死刑制度について少し思うことがあり、書き留めておく。
私は、生まれてこの方ずっと死刑制度の存続が必要と思っていた。
今もそれは変わらないが、揺らいでいる。
死刑について通常、本人の責任能力が問われる。
責任なきところに、罪は無いからだ。
しかし、現実には、本当に責任を取るべき「大人」が責任逃れをし、その責任を本来責任のない人に押し付けたことにより、必然的に事件が発生し、結果的に加害者と被害者に分かれたといえるケースが存在する。
「自殺」に追い込まれた場合、実質的殺人者は、直接手を下していないとはいえ、無罪放免というのは、奇妙に思える。
よく同じ条件でも、殺す人と殺さない人がいることを、加害者責任の根拠にように言う人がいるが、本気で言っているとは思えない。
確かに、世の中が悪い、政治家が悪いといっていいケースがある。
それを最大限考慮しても、それでもやっぱり死刑を廃止すべきとは、私は思わない。
わが子が殺された、妻が殺された、最愛の人が理不尽に殺されたのだ。当然、死刑でいいと思う。復讐する。それで十分ではないかと思う。
ただ、ここで復讐という言葉に引っかかりを覚える。
果たして加害者を速やかに殺すことが、遺されたものにとって、最高の復讐になるのだろうか?という疑問があるのだ。
「身勝手な理由で理不尽に被害者の命を奪う、冷酷で残虐、情状酌量の余地無し」これが、死刑判決の決まり文句だ。
実に官僚的である。
この作文への違和感が膨らんでくる。
途中で判断停止してさっさと事件を片付けようとしているとしか思えない。
裁判が長期化するのもおかしいというのも分かるが、遺族の処罰感情というのが、常に迅速な死刑判決を求めていると解釈するのはオカシクナイカと思う。
ちょこっと精神鑑定をしたぐらいで、人間の何がわかるというのだろうか?
罪が重ければ重いほど、長期わたる地道な研究が必要であると考えるのが普通ではないか?
遺族のグリーフケアもまた長期の取り組みが必要なことは明らかだろう。
死刑囚の病理を長期の研究課題として取り組む前提として、死刑執行を延期するという措置を求める遺族がイナイと断言できるだろうか?
死刑という復讐とは別な復讐形態として生涯継続する観察処分というのを検討されてもよいのではないか?
なぜかこんなことを思いついた。