再論死刑制度

法秩序を維持するために、判決を無限に引き伸ばすことは好ましくない。
なんらかの判決を下し、蒸し返さないで、終わったことにすることが、大事だ。
つまり、判決という形で記憶されるが、日常レベルでは、リセットされるということだろう。
判決を下すことと葬式は、そういう意味で似ている。
日常を取り戻すための儀式という側面だ。
一方で、人は悲惨な戦争や犯罪の記憶を風化させてはならないという議論もする。忘却される記憶、繰り返される悲劇を嘆く。
私には、死刑制度というものが、忘却を促進するように見える。
事件の真相解明というのは、遺族の贅沢、わがまま、個人的趣味として排除されているように思う。
繰り返されてはならないという遺族感情を過小評価することによって、成り立っているのが、死刑制度ではないのかと思う。
犯人が死刑にされても、殺された人は帰ってこない。
それでも死刑は、一区切りとして遺族には感じられる。
残されたものが常に忘却の側に誘惑されているということのようだ。
遺族の処罰感情と忘却への誘惑。
一方で、真相を解明し、記憶し続けることは背景に沈む。
そして、悲劇は、当然のように繰り返される。