政権交代

日本は政権交代というものに対する経験が浅い。
少し歴史の復習をすると、
いわゆる55年体制では、社会主義体制への体制変化に対する恐怖が、資本主義的政権与党に社会福祉的政策を強制した。
この社会福祉的政策が結果的に資本主義的にも「正解」で、分厚い中産階級を量産し、巨大な国内市場として成長した。
こうした経済的成功が政権与党に政治的安定をもたらした時期がある。
しかし、消費が成熟し投資効率が悪くなる。
かってのような高度成長は望めない。
巨額な財政赤字が積みあがる。
そこに、社会主義体制の崩壊が起こる。
社会主義といっても、要するに役人天国だから割と長持ちしただけのことで、崩壊するのは時間の問題ではあった。
とにかくもはや社会主義化するという体制変化への脅威は去った。
そこで何が起こったか。
自由の名のもとに、あるいは自己責任の名の下に、社会権が軽視あるいは無視されることになる。
初期の資本主義の野蛮さが復活したのだ。
それが「今」だ。
そこで、政権交代アメリカ的な民主主義の成熟という文脈で理解すべきではない。
政権与党に対して「恐怖」を与え、自分達の「政治的要求」を強制する力を持つ政治勢力が持続可能に存在しうるかどうかという問題なのだ。
政治思想の領域で、懐メロやパッチワークしか存在しないのでは、こころもとない。
歴史的に言えば、過渡期なのだろうが、何処から何処へ行こうとしているのかまるで先が見えない。
逆にいえば、百家争鳴、なんでもありなので、空想的ユートピアでも妄想するのがよさそうではある。
一つぐらい「アタル」かもしれない。