経験と新しさ

古代エジプトでは、年老いた王を殺し若い王に取り替えていたという。
王たるものには、天寿をまっとうする権利が存在しないようだ。
古代王政の野蛮さとして記憶されている。

通常、人は経験から学ぶ。

ならば、「王」としての成功や失敗から多くを学んだ「老成した王」こそ王としてふさわしいとも考えられる。
人はまれにしか「王」になれないのだから、「王」としての経験はそれだけ貴重で、積み重ねがあまりきかないのだから、なおさらだろう。

ところが現実には、失敗した王は、失脚する。
人であれば誰もが失敗することは自明なことで、その失敗が修正されるかどうかの方がはるかに重要だろう。
ここで結論できることは、人は王に失敗を許さない。修正の機会を与えない。王は、誤り多き人間であってはならないという不思議な期待であり、要請である。
通常この手の要請や期待は、王の自由度を縛り、「無難」な選択しか許さないことになる。
前例を墨守するのがせいぜいだ。
つまり、若き王とは、無難な選択、保守的な「選択」の王ということになる。
結局、人々は、変革を望んでいるようで、実は新しさという「保守」をその深層で選択しているといえる。
民主党の党首選をみながら、そんなことを考えた。
こちゃこちゃ批判をする前に、鳩山党首の「経験」に期待してもよいのではないか。と思ったりした。
バツイチの女」が一皮むけるように、「出戻り党首」というのも面白いのではないか。などと思った。