自由の幻想

普通、「自由」というと「良いこと」になっている。
しかし、少しでも法律をかじった事のあるものには明白なことだが、自由とは、強者の自由のことである。
政治的には「弱者」であった19世紀の企業家が政治的に目覚めたときに、政治的「強者」であった王や貴族や僧侶に対して掲げた政治的スローガンこそ「自由」である。
当時の企業家は政治的には「弱者」であったが、商品の大量生産手段を所有する経済的な「強者」であった。この経済的強さに見合った政治的権利を手に入れるためには、「自由」こそがそれにふさわしい政治的目的になった。
彼らは、自分達の卓越した生産手段により作り出される製品、安く、高品質、先進的な商品を「自由」に「お客」さんに売りたかった。
彼らには「自由」さえあれば、彼らの商品が飛ぶように売れる自信があった。自由な市場を通じて客に選ばれる自信があった。
欲しいのは、「自由」だけだった。
この自由の最大の犠牲者は、市場を独占的に囲い込み既得権益にしがみつく連中だった。
彼らは、低品質の製品を高く売りつけ独占利潤を上げていた。
「自由」貿易を考えてみよう。
過剰な生産力を持つ強者が、そのはけ口を閉鎖的な海外市場に求めるというだけの話だ。
自由市場を通じて、消費者は安く、高品質な商品、発明のもたらす果実が分配される。
と同時に、自由市場のもつ破壊的側面も受け入れざるをえない。
「自由」というものを、これ以外のやり方で「定義」しようとすることは、私には滑稽に思える。
芸術表現の「自由」などという連中は、アホとしか思えない。
「新自由」を定義するにしても、上記定義の延長線上に定義されるべきだろう。
「自由」がまだ政治的に有効なスローガンでありうるのかは、最高に怪しいとしても。