育児について

介護保険の普及は、介護の社会化である。
介護が大変だから、国がお手伝いをしましょうというお話ではまったくない。
介護を一部国が肩代わりする代わりに、介護を担っていた主婦層を逼迫する労働力として安く利用しようとする国家戦略である。
介護を専門化した組織によって担うことにより、家庭における個別の介護のによって失われる生産性を、回復することが国益に「とても」かなうのだ。
同様のことが、育児にも適用できる。
個別の家庭が担う育児を国家が肩代わりするということだ。
明らかに、時代とともに、家庭の社会化が推し進められてきた。
家事が家電化される。
介護が社会化される。
育児が社会化される。

家庭が独身世帯へと収束していこうとしている。

育児というものを法律的に見ると、両親が育児を「請負契約」しているといえる。
出来の悪い子は、親が悪いので責任を取らなければならないからだ。
しかし、介護や育児の社会化は、この請負契約の一部を国が担うことを意味している。
「介護、育児責任」に対して共同責任がある。
国家には、こうした社会化を国家戦略として進めるつもりなら、それなりの責任を担う覚悟がいる。
ところが、ここでも逃げる。
ごまかす。
わが国の美風が失われるなどと嘘をつく。
個人に全ての責任を負わせようとする。

育児放棄、介護虐待などがスキャンダラスに報道されるたび、「おいおい、違うだろう」と思う。

受益者負担というなら、国家こそ第一の受益者である。
相応の請負責任を負うべきだ。