マニフェストの通知表

各種団体による各党マニフェストに対する通知表が発表された。
団体の想定する「国益」がそれぞれ異なる以上、通知表の点数もばらついている。
体制選択の選挙なら、政策論争は実質存在せず、マニフェストを比較して、採点するなどといったことは起こらない。
そういう意味で、採点するということ自体が政治的圧力となるという画期的時代になったとも言える。
さて、国益について考える。
国民が許容できる「負担」は、政党に対する信頼感によって大きく異なる。
政治家が小遣い稼ぎにせいを出し、役人が天下り先のことしか考えないとすれば、「国家」は小さいほどいい。
しかし、政治家が費用に対して優れた行政サービスを政策化し、役人がそれを効率よく運用するなら、「国家」は大きいほどいい。
各種団体が考える国益は、この国民の政党に寄せる信頼感によって大きく変わる。
そういう意味で「国益」という一番肝心な点、国民負担という一番肝心な点に「恣意性」が入ってしまう。
逆に、この「恣意性」に政治的な立場、見解が反映されることになる。
小さな政府論者にとって、当然各党の社民的ばら撒きは、官僚組織の肥大を招く「悪」でしかない。
大きな政府論者にとって、不十分なばら撒きということになる。
ある意味、どちらもそれなりに正しいと思う。
むしろ、信頼感を得るための「工程表」こそ「財源論」より重要だろう。
それにしても、体制選択を争っていたころの選挙とマニフェスト選挙を比べると、複雑な思いがする。
ある意味政治的イマジネーションの衰弱とも思えるし、政治的「成熟」とも思える。
ま、似たようなものだが・・・・