経団連と社民と民主の妥協点

経団連は、民主党と妥協せざるを得ない。
何処に妥協点を見出すべきかが、問題だ。
民主党としては、ヨーロッパである程度成功した福祉国家モデルを下敷きにしばらく政権を運営する可能性が高い。
したがって、経団連としては、公共投資がらみの需要創出はアテにできない。
その代わり、消費はある程度下支えされる。
しかし、新たな設備投資が行われるレベルまでには至らないと思われる。
この点が最大の危惧だ。
残るは、外需だが、これもどうだかねというところだろう。
商品の供給サイドにお金を回すか、消費サイドに回すかは、どちらが上手に「お金」を生かすことが出来るかが目安になる。
言い換えると、「使用価値」を最大化させるようにお金を回せる場所に、お金が回るようにするべきなのだ。
最近そう考えるにいたった。
使用価値を最大化させるとは、どういうことか?
「生きたお金」にするということだ。
社民的な考えでは、貧しい人に優先的に回すことが正しいだろう。
経団連的に言えば、俺達のところに優先的にまわしてくれれば、お金を誰よりも上手く回してみせるというだろう。
ありていに言えば、お金持ちにお金を回せということだ。これは、これで理屈は通っている。
しかし、今日起こっている事態は、両方が機能不全に陥る状態を示している。
貧乏人にばら撒いても、過剰な生産設備ゆえに、乗数効果は望めない。
お金もちにばら撒いても、それほどの乗数効果はない。
借金を返すのが精一杯だろう。
中間層相手でも怪しい。
ここでも、重要なのは、ヘビーユーザーという概念だ。
イノベーションは、ヘビーユーザーとともにある。
例えば、穏当さを著しく欠くが、ヤクの売人が、ヤク中であるという構図に中から、脱法ドラッグやら真に麻薬性のない麻薬が発明されるのだ。
日本のビールのイノベーションも面白い。
これも、ビールのヘビーユーザーの存在を前提にして、アルコール無きビールを生み出すにいたった。
社民的な貧乏人でもなく、経団連的お金もちにでもなく、秋葉原的オタクを保護する政策こそ、ヨーロッパのすでに挫折した福祉国家モデルを修正する日本版福祉成長モデルになると思う。
ルーズベルトニューディールの焼き直しかできないオバマに、宇宙人「鳩山」がこうした国家戦略で挑んで欲しいと思う。