金川被告に死刑求刑!

検察は「矯正は不可能」なので「死刑」と判断した。
犯行時の「責任能力」は100パーセントで、「矯正は100パーセント不可能」で、結論が「死刑」。
良くある司法官僚の定型作文だ。
この、「矯正は不可能」と「責任能力」との関係を考えてみよう。

まず「責任能力はあり、矯正不可能」、「責任能力はあり、矯正可能」「責任能力がなくて、矯正可能」と「責任能力なくて、矯正は不可能」これだけの組み合わせが存在することになる。
さて、責任能力がない場合、当然「無罪」である。
さらに、「責任能力があり、矯正可能」なら、「死刑」はない。
「死刑」になるのは、「責任能力があり、矯正不可能」な場合のみとなる。
自分の行動を「自由に選択する意志と能力」が存在するということが、責任能力の定義である。
矯正不可能とは、自分の行動を「自由に選択する能力がないがゆえに、常に不法行為を繰り返してしまう」ことである。
つまり、彼は「検察」により、自由に選択する意志と能力を認定された後、自分の行動を自由に選択する能力がなく不法行為を繰り返してしまうと「検察」に、認定されたことになる。

「矛盾」しているのは、誰であるか明白だろう。
ご都合主義なのは誰であるかは、明白だろう。
目的のためには、手段を選ばないのは誰であるか明白だろう。
検察である。
なぜ、このようなことになったのか?
それは、表向き「復讐」が禁じられている近代的状況で、「復讐」しようとするからだ。
全ての「死刑」判決に共通した「矛盾」である。
我々の時代の倫理の「限界」がこのような形態をとるのだと思う。