「平均」で考えることの問題点

どういう加減か「平均」で物事を考えたがる。
平均からの偏りが物事の尺度として「幅」を利かせすぎる。
「平均」が便利な「全体」を示す指標であることは認める。
しかし、だからといって「全体」を「平均」と同一視すると、おかしなことになる。
例えば、平均給与を「幸福」の尺度とすると道を誤ると思う。
「平均的能力」を「知性」の尺度として使うのは間違いだろう。
ところが現実の「政策」は、この「平均」に対しての有効性を問題にする。
むしろ、マックスやミニマムを全体の「指標」として使い、このマックスやこのミニマムにどう働きかけるかが政策化されるべき場合も多いと思う。
例えば、スーパーコンピューターならマックスが重要だろうし、派遣社員やパートの存在は、雇用におけるミニマムが重要であることを示している。
つまり、全体の「端っこ」が重要なのだ。
「平均」に働きかければ、マックスもミニマムも付いてくるとは限らない。
ただ、選挙に強いのは、「平均」だという政治的理由はあるとは思う。
現代の魔法の言葉があるとすれば、「平均」だろう。
皆が黙る魔法の言葉、「平均、平均、平均」
「民主主義」という平均的な政治的発明の時代に我々は生きている。