無謬性神話

中国共産党に限らず、「政党」は普通なかなか自分の「非」を認めないものだ。
一般論としても、集団になるとそういう傾向が強くなる。
一党独裁が正当化されるとするなら、それはその政党が無謬でなくてはならない。
しかし、間違いや失敗は付き物なので、大抵「自己批判」をする。
それで足らなければ「更迭」あるいは「世代交代」このアタリで何とかしたいと考える物であるらしい。
政党が常に正しい選択をすると期待するのは、勿論間違っている。
一党独裁では、間違え無い方がおかしいぐらいだ。
「例外」はない。
そこで生まれてきたのが多党制あるいは選挙ということだろう。
政権が間違える度に、反乱を組織するのは、やる方もやられる方も「コスト」がかかり、得ではないという歴史的教訓だ。
中国共産党は、この歴史的教訓にいつも頭をぶつけているように思う。
どこかで、学ぶべきだろう。
手遅れにならないうちに。
それにしても、こんなことを中国で発信すれば、「豚箱」行きなのだから、随分なものだと思う。
板垣退助から始まる日本の自由民権運動は、後に大政翼賛会に収束するとはいえ、曲がりなりにも政党政治へと結実した。
ちょっと、不思議な気持ちがする。