ノーベル賞に思うこと。

象牙の塔と言われた、一昔前に比べれば大学も「企業化」したといえるだろう。
象徴的なのは「理学部」の「工学化」とでもいえる現象だろう。
「真理」の追究が「功利」の追求に入れ替わったのだろうか?
むしろ、「工学」が「理学化」したというのが実態かもしれない。
投資効率が低下し、画期的「新製品」の開発が一企業の負担で不可能になるという「現実」を反映しているように思う。
需要不足に対する唯一の処方箋は、「画期的新製品」だからだ。
画期的とは「世界初」、「世界初」とは「原理的」と翻訳できる。
こう考えると、一人の天才が自然の原理を解明してくれないかなどという英雄待望論が首をもたげる。
しかし、一人の天才の出現にはそれだけの裾野の広さが要求される。
持続的な関心といってもいい。
経済的に翻訳すれば、教育投資の増加だろう。
しかし、現実の大学はひどく混乱しているように思う。
こういう不況だからこそ、教育投資は増大させるべきなのだ。
割と明白なことのように思う。
不況下に教育だけを優遇しているという批判は、不況の本質を見ようとしない根拠のない感情論だと思う。
苦しい時は、みんなで我慢をしましょうでは、「希望」がなさすぎる。