嫉妬深い桜

近くのスーパーマーケットに出かけた。
駐車場を歩いていると何かいつもと「当たり」が違う。
スベル感じがするのだ。
「あれ!桜の木を切ったのか!」
と気がつく。
桜の木とはいえ、最初は小さな苗木を植えただけのものだった。
確かに最近少し大きくなって、「邪魔」といえば邪魔になってきていたのかもしれない。
春になれば、花をつけ、秋になれば葉を落とす。
何の変哲もない普通の桜でしかない。
維持管理も大変だったかもしれないし、何より駐車しにくくなっていたのだろう、とにかく「切られたのだ」
このように切られる前なら、取り立てて何の感慨をもつことなくまるでそこに存在しないがごとく「無視」し続けたにちがいない。
意味も価値もないどころか、まず「意識」に浮上しないのだ。
このスーパーにとって私は単なる「客」なので、駐車が便利になったと喜ベばいいのかもしれない。
そういう感じ方もできる。
邪魔な木がなくなって、せいせいしたといえなくもない。
この木に関して私は何の「権利」も主張できないことはわかっている。
あくまでもスパーマーケットの所有する木なのだ。
煮て食おうが焼いて食おうが勝手である。
仮に私の木であっても、邪魔なので「切った」可能性が高い。
それほどにどうでもいい木なのだ。
しかし、私の本当の気持を大袈裟に言えば、「俺の桜を相談もなく勝手に切りやがって許せん!」だ。
 孫がおじいちゃんの家に遊びに来た。彼女にとってこの家はおじいちゃんの家である前に、「だッちゃんの家」だった。
だッちゃんとは、この家で飼われているダックスフントのことだ。
子供の他愛のない言葉だと思っていた。
法的には、この家はおじいちゃんの所有だ。
しかし、ひょっとしてこの家の「ヌシ「」は、何の権利も主張することのないこの「犬」ではないかという気がしたことがある。
「ヌシ」とは、必ずしも法的所有者とは限らない。
例えば、商売をやっている家では、法的にはその家の主人のものだが、「ヌシ」はお客であるといえなくもない。
家の「ヌシ」、山の「ヌシ」、「沼」のヌシ。
この「ヌシ」が、嫉妬深いとしたら、祟らない訳がない。
ヌシは法律以前の正当な「場」の所有者だからだ。
この桜が「ヌシ」だった可能性がある。
そんなことを考えた。