嫉妬について3

小熊が銃殺される映像がニュース画面に流れる。
最初の感想は、「かわいそうに」だ。
合理的な説明を聞けば、最初の感想は薄められるとはいえやはり「熊」を殺すのはヒドイなと思ってしまう。
これは、環境保護といったエコな視点からくるものではない。
熊がこの地域の「ヌシ」だと思えば、不当に熊の「縄張り」を侵略したのは、むしろ人間だともいえる。
しかし、もっと端的に熊を「ペット化」する強力な磁場が存在する。
我々の熊ちゃんを勝手に殺したのは許せないという主張である。
こうした無権利の権利が主張される場こそ嫉妬の生産工場だろう。
こうした「怒り」や「悲しみ」には、社会レベルでの合理的な根拠がないので、常に「気持は分るけどね」と言われればいい方で、無視あるいはその根拠のなさを突っ込まれて沈黙を余儀なくされる。
クマとカミは同一語源だと聞いたことがある。
だから、「熊」は祟り「神」になるのだろう。
我々の嫉妬には、古層の記憶が生々しく息づいていると思う。
縄張り、ヌシ、祟り、生霊といったタームの方がしっくりくるのだ。
人は、人間である前に、猿であるということを証明しているといってもいい。