嫉妬について24

嫉妬は、平和時における戦争の継続であるという主張をさらに補強すべく、「大奥」から今度は江戸「吉原」に話を移す。
吉原の起源は、神君家康の治世にさかのぼる。
平和な時代を象徴するような出来事ともいえる。
金さえあれば、安心して女遊びが出来るのだ。
この吉原で、最高位の「花魁」に関する伝説は数多い。
その中でも、代々吉原で襲名されたという「高尾太夫」の挿話は、興味深い。
吉原最高位の「花魁」には、ただ美貌であるというだけでは勤まらない。まして、「高尾太夫」を襲名するとなればなおさらだ。
襲名といっても、子供を代々「高尾太夫」にするのではなく、素質のあるものを選抜し、幼少のころから教育することから始まる。
古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養を身に着けさせる。
客も単に、お金があるというだけではお話にならない。
「 座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。
一回目、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。
この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。
客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
二回目には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
三回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。
このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。
通常は、三回目でようやく床入れ出来るようになった。
馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされる。
 他の花魁に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。
 客は金を支払って詫びを入れたという。」wikより
高尾太夫は、十一代に渡り襲名された。
最も有名なのは二代目の、いわゆる万治高尾で、仙台藩伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたという。
三代目の水谷高尾は歴代のうち最も異色な逸話の持ち主である。
水戸家の為替御用達水谷六兵衛に落籍されてから、六兵衛の下人の平右衛門(68歳)と不義をして出奔し、後に浄瑠璃語りの半太夫の妻となったが、再び家を出て牧野駿河守の側女となっているうち、中小姓の河野平馬と通じてまたまた出奔し、その後深川の髪結いの女房となり、さらに役者の袖岡政之助に嫁し、最後に神田三崎町の元結売の妻となったが、この家も不縁に終わったとみえ、ある年、大音寺前の茶屋の鎌倉屋の前で倒死していたとつたえられる。
四代目。浅野高尾。三万石の浅野壱岐守により落籍。
五代目。紺屋高尾。 神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。
六代目は播磨姫路藩15万石の当主榊原政岑に落籍され、国元へ従って行った。その後越後高田への転封に同行し、式部大輔の死後、剃髪して30余歳で病死した。
七代目、八代目、九代目は伝わるところが少ない。
十代目は、ある大身の大名に落籍され、その領地である播磨の姫路に従っていったが、84歳の高齢で安らかな往生を遂げたという(「高尾考」では、この十代目と六代目榊原高尾とが混同されているという)。
十一代目は寛保元年(1741年)ある貴顕に落籍され、廓を出るとき、大門で盛り塩をしたり、その他にも目に余る沙汰があったので、物議を醸し、吉原ではそれ以来、この名を憚って用いなかったと伝える。」
以上は、「高尾考」による。
「六代目高尾を身請けした榊原政岑は、分家でしかも次男坊でしかないのだが、後に末期養子の制度により、本家の姫路城で有名な姫路藩を継承する。
榊原政岑は、将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。
寛保元年(1741年)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買った人でもある。」wikより
武断政治では、存在しえなかった人物である。
 また、遊女の「分際」で、「自由」に振舞うことが出来たことは、明白だろう。
 これは、下克上そのものだと思う。
「乱」は、大奥や吉原で継続されていたのだ。
それは、勿論「嫉妬の生産装置」でもあった。