嫉妬について28

小笠原礼法についてのwikの記事を抜粋する。
「江戸時代は武士が支配する階級社会であったが、5代将軍徳川綱吉の頃は、経済の実権が商人に移り、豪商の財力がなければ武家社会の経済は成り立たなくなっていた。町人に経済的な力がつくにつれ、体系だった礼法、ひいては格式のある礼法が要求されるようになり、その基準としてあてられたのが小笠原流礼法であった。ところが、当時小笠原家では小笠原家伝来の弓馬礼法の奥儀は一子相伝で、余人には伝えられることはなく、また、「お止め流」として将軍家以外ではむやみに行うことができなかったため、町人にその全貌を知ることは不可能であった。そのような中、世の要求に応じて、自称小笠原流の師範が現れるようになる。この中には、小笠原家を出て浪人をしながら礼法を教え蓄財を計るものもいた。こうした小笠原家とは何の関係もない礼法専門家たちは、町人たちの好みに応じて、華美で贅沢な事大主義のにおいの強い「小笠原流」を作り上げた。」
 この綱吉のころに礼法への社会的需要が増大している点が面白い。綱吉は言わずと知れた「犬公方」である。さらに、この礼法を欲したのが、経済的な実権を握った町人たちである点も重要だろう。
武力ではなく、経済力へと変化しているのだ。
 ふすまをどう開けようがどうでもよさそうなものだし、どの順番で何を食べようが構わない。
美味しくいただければ十分だし、醜くなければ所作など自由な方が人間らしいとは、当時の町人達は考えなかった。
 何の根拠もないこうした制約には、一つだけ利点がある。無根拠のもつ不安をとりあえず解消してくれるからだ。
 とりあえずこの順番でやっておけば、過失にはならない。
 大過ないという安心感が得られる。
 あわよくば、「正式」とか「正統」といったお墨付きをもらえる。
 最初は、単なる「保険」でしかなかったのだろうが、徐々に「必須の素養」としての位置を占め始める。
 日本人が習い事に、血道をあげるようになったのは、このころからだと思う。
 嫉妬は、「道」になったというと、言い過ぎだろうか?
 全ては、馬鹿げていて、無根拠ではある。
 しかし、馬鹿げていて無根拠であるが故に、理屈や合理性が変化しても、「廃れない」ともいえるのだ。
 この点は、「文化」を考える場合最高に重要なポイントだろう。