諫言と切腹

 江戸時代、藩主の失政を批判するため忠臣は、「諫言」を行った。「諫言」は、藩主に対する「不忠」あるいは「裏切り」あるいは「反逆」とみなされ、「切腹」とセットになっている。
昔の話とばかりは言えない。
いまだに、日本人の「心性」に深く根付いていると思う。
もはや古い話だが、東大大学院教授の小佐古氏が内閣官房参与を辞任した。
政府から「任命」された「御用学者」が、政府の「方針」にたてをついたように見える。
この「御用学者」というところが、この話のミソだ。
原発反対の「学識者」ではないのだ。
この「諫言」の真実性は、疑いないように思える。
同様の内容の指摘は、既になされていたにもかかわらず、それは「政治的な「実現性」をもたなかった。
この教授の辞任劇以後、政府もしぶしぶ「失政」を認めざるをえない展開の出発点になっている。
あるいは、今も福島第一原発で指揮をとる吉田昌郎所長の例を挙げるべきかもしれない。
東電の内部にいながら、東電の経営陣に左遷あるいは処分覚悟で「現場」を守ろうとする「忠臣」たちだ。
この「忠臣」達が「不忠」を犯す時に生産されるものこそ「真実」ということになる。
同様に真実の指摘を誰か他の人がしたとしても、負け犬の遠吠えにしかならない。
実効性というか実現性がないのだから、自分は「真実」を言っているという自己満足しか手に入れられない。
もし、日本的な「政治風土」を問題にすべきとしたら、この「諫言と切腹」という「真実」の生産装置を解析すべきだろうと思いついた。
不思議な「からくり」であることは、間違いないように思う。