諫言と切腹

諫言と天誅の違いは、明白だろう。
しかし、天誅を背中に背負って諫言をするともいえるので見かけほど異なっているわけではない。
天誅を行うものも、諫言を行うものも「命」を賭することにより、「主君」の「上位」に立つという意味では、同じことだからだ。
個人の利害を超えた「価値」が、問題になっている。
絶対的なものに自分を擬することの代償に、命をかける。
そういう意味で、「生贄のようなもの」ともいえる。
サッカーでいえば、ゴール前でディフェンスがファウルを犯し、PKの判定を受ける。しかし、キーパーが頑張れば、得点を阻止できる。サッカーでこうしたディフェンスのできる選手は、「無能」だろうか?
ファウルをしないで、防御できればいいのだが、そうもいかない場合、ファウルするか諦めるかの選択で、よいディフェンスは意図的にファウルをする。
これこそが、チームを救う最後の手段と「現場の彼」が判断したのだ。これを彼個人の判断をチーム全体の判断と短絡したと非難することはできない。
ここで「現場」と「絶対」との「奇妙な婚姻」がみてとれる。