続アメリカと銃

中毒症状のモデルとして、鼠で、実験が行われた。ネズミの内側前脳束に電極を埋め込み、レバーを押すと微弱な電流が流れるようにしておく。頻繁なレバー押しがみられる。猿でも同様な実験が行われ、やはり同じく報酬系ドーパミン分泌に対する「依存性」が見られた。餓死するまでその報酬を求めて反復動作をくりかえしたそうだ。可哀そうな気がする。いろんな意味で。
一度味わった快感を忘れず、その快感の強さや持続時間を維持しようと「必死に努力」している。
こうした実験から一つ仮説が浮かぶ。
まず、味わった快感の測定を行い、その最大値を記録する。
次に、今味わっている快感をこの最大値と比較して、
小さい場合、より大きな快感を求めて行動する。
大きい場合、この値を最大値として更新し、記録する。
これで「依存性」はある程度説明できる。
さらに複雑な、「飽きる」という現象を説明するためには、さらに最大快感と今現在の快感を比較し、それをある閾値とさらに比較すると同時にその測定回数を計測し、「微分」し、微分係数をさらに閾値と比較して、その値により「飽きた」と認識しているのかもしれない。閾値自体も書き換えられるとした方がより真実に近いだろう。
飽きないという場合、この回路が存在しないか、破壊されるかあっても弱くしか機能していないのだろう。
こうした仮説がもし妥当なら、依存性の問題は「飽きる」という「回路」が退化あるいは機能不全な現象として説明できる。
「飽きる」ということは、快感ではない。しかし、「飽きた」というデータは、ここにはもはや快感の最大化の可能性は少ないというネガティブデータのフラグを立てることになり、別な対象や関心に快感の最大化を求めるように行動を起こすので、べつな方法による快感の最大化の可能性が広がる。もっとも必ずしもうまく行くとは限らないが。
なぜ、このように「飽きる」ということにこだわるのかというと、私が全米ライフル協会の主張に「飽きて」いるからだ。「うんざり」である。他の可能性はないのか!