続アメリカと銃

廣松渉の言う「物象化的錯視」の話が思い出される。
人の認識は「関数的、機能的に連関し合っているのであり、それぞれ独立に自存するものではない。この関数的連関から切り離して変数を独立の実体として捉えるところから、いわゆる「物象化的錯視」が生じる」
としている。
私には、この物象化的錯視こそ、「中毒」のゲートウェイドラッグではないかと思う。
「物象化的錯視」は、数学的には偏微分に対応した概念と解釈できる。つまり、局所的な比例関係である。局所における比例関係というとなにやら訳がわかない。
廣松渉によれば、全ての学問がこの物象化的錯視を前提にしていることになるが、これは、中毒患者に端的に現れる症状ともいえる。
例えば、お酒2合の喜びは、お酒1合の2倍の喜び、3合だと3倍の報酬を与えるとアルコール中毒者は想定する。比例するのだ。
偏微分すると他の変数は変わらないと想定するので当然そうなる。実際は、この比例関係は局所的には正しいのだが全域に適用できないのが通例だ。
この比例関係を用心深く調査することなく、全域で全面的に「比例」すると思うところに落とし穴がある。マルチ商法のようなものだ。どこかで必ず破綻する。
アレ!「比例」関係が問題の本質だ。
銃がたくさんあれば、アメリカはより安全だろうか!
本当にそう信じれるのか?
学校に軍隊を常駐させれば、さらに安全だろうか!