続アメリカと銃

普通「真実」は、一つと言うことになっている。
しかし、プラセボ効果を考えると、それを信じるか信じないかで「真実」は分かれることになる。つまり、人による。
プラセボは科学的医学的な根拠がないなどと言っているが、科学は「真実」の番人であると主張したいだけで、現実には「信念」によってモノは嘘にもなれば、本当にもなる。
人は科学的といえば信じるし、非科学的といえば信じないという態度をとりがちだ。
しかし、これは科学への信仰告白以外の何ものでもない。
科学的態度とは、宗教的な態度でもある。
疑わしきは「信じるな」、それは偽預言者ではないかと疑え、科学的な手続きを経て初めて「真実」と認定すべきだとなる。
しかし、疑わしきものをとりあえず信じてみるか信じるフリをするという態度によって、偽者が本物になる、嘘が真実になるという展開は「排除」されている。実に科学的ではない態度だからだ。
疑わしきものを、どうでもいいものを信じることの「効用」、「偽預言者」を信じることの「祝福」の可能性は、「ない」ことになっている。
あるとしても、「ない」
あるのだけど「不安定」
あるけど「騙し」
あるけど間違い。
あるけど、それは非科学的で宗教の世界。
再現性なしでは、そもそも話にならない!
ところで、科学とは宗教ではないのか?
しかもかなり偏狭で不寛容な!
ついでに言っておくと、科学者とは優秀であればあるほど、ワークホリック=仕事中毒であること証明されている。
ラリッている連中だということは押えておこう。
人は、もっと信じやすく騙されやすくなる方が、「得」かもしれない。