バドミントン

バドミントンをやっている。
ダブルスが愉しいので、何とか四人集めて体育館を借りて毎週やっている。
スポーツは色々ちょっとづつやったが、それぞれ面白い。ただ、バドミントンは少しほかのスポーツと異質な設計になっているように思う。
ある意味似ているのが、サッカーかな。
ラリーを続けながら、勝機を見出すという意味でなら、テニスや卓球と同じではある。ところが、コートの狭さ、シャトルの減速、ラケットの長さ、ネットの高さとダブルスの場合の守備範囲の狭さのせいで、ラリーが続きやすい設計になっている。言い換えると、中々勝負がつかないで、えんえんとラリーが続くのだ。ダブルスで上手な人と下手な人の組み合わせてレベルをそろえると、ラリーが続きやすい。
 これは、バドミントンを羽子板や蹴鞠といった遊びに近付ける。スポーツとしてのバドミントンは、いかにラリーを抜け出して勝つかというところに力点があるのだが、遊びとしてのバドミントンは逆にいかにラリーを楽しく続けるかというところに力点を置くこともできる。
ラリーをなるべく長く優雅に続けることをバドミントンの目標にすることもできるのだ。
ある程度上手くなれば、ラリーを長く続けること自体は難しくない。楽しく優雅にとなればまた別の洗練が必要とされる。一見するとこのスポーツとしてのバドミントンと優雅な遊びとしてのバドミントンは対立しているように見えるかもしれない。
ところが、この二つのバドミントンは、どうも対立よりは、補完関係にあるようなのだ。
なるべく長くラリーを続けようとする雅な方向とラリーをなるべく早く断ち切ろうとするスポーツとして方向は明らかに別に見える。
スポーツ指向の強い人ほど、だらだらと続く雅なバドミントンは否定するだろうし、雅なバトミントン指向の人にしてみれば、スポーツとしてのバドミントンは邪道と言ってもいい。雅なバドミントンにおいて、ラリーが中断することは、「失敗」なのだ。勝負がつくことは、もっとも価値のない事である。
この二つの要素がバドミントンでは際立つようになっている。
そしてこの二つはどうも対立しないで、補完関係にあるらしいのだ。