バドミントン

抽象的に言えば、競争と協力との関係がここで問題になっている。一般に「競争と協力」との関係は対立関係だろう。
競争する事により、切磋琢磨して進歩が導き出せるとかいう。競争に勝ち抜くためにいろいろと「秘密」やら「秘策」やらが必要のようだ。
スポーツは勿論競争に勝つことが大事ということになっている。
自由競争は、資本主義の根幹などという人もいるのだから、大したもんだ。
競争を巡っては、みな興奮して議論しているように思う。
その点「協力」は分が悪い。無条件の協力とかはこの世のものとは認めがたく、存在は限定的、条件付き協力がもっぱら「実在」している。
私も長らくそう信じていた。
ところが、バドミントンはどうも「ちがう」。
間違いなくもっとも激しいスポーツではあるのだが、一方蹴鞠や羽子板のような「協力」ゲームでもある。味方同士は勿論だが、敵同士においても何かしら「協力」的なのだ。
平安時代に和歌を男女の間で贈答しあうのと類似した「恋愛」に似ていると言えなくもない。
相手のつれなさを巧みに責める女の言語技術が男を魅了したであろうことは疑いようがない。逆に、男の恋情が優雅に吐露された和歌が、女を魅了したであろう事もうたがいようがない。きわどいところを攻めあう技術が両者ともプロフェッショナルの域に達していたことも疑いようがない。
バドミントンはそれとどこか似ているのだ。