バドミントン

ユングの元型論の中でオールドワイズマンとグレートマザーがいる。
悪乗りしていえば、バドミントンで対応するのは、審判がオールドワイズマンで、コートがグレートマザーだろう。
常に冷静にプレイの適否を判断し、中立で、ルールを厳守する審判の機能がオールドワイズマンの基本仕様だからだ。
オールドワイズマンは勿論コーチや監督でもいいのだが、付加的な機能のような気がする。必ずしも賢者は、味方ではないのだ。真実の人、限界を教えてくれる人だと思う。
一方、グレートマザーはこれは露骨にコートそのものだと思う。シャトルがコートの中を舞う限りプレイは楽しく継続している。しかし、このコートへの落下あるいはコート外へのシャトルの逸脱は、「死」を意味する。
バドミントンに限らず、コートの大きさあるいは狭さを意識する事が基本である。プレイヤーは、コートを常に意識している訳ではないが、プレイが高度になればなるほど、このコート感覚がもっとも重要な要素になる。バドミントンの上手い人とは、自分の中に審判とコート感覚を持っている人だろう。言い換えれば、オールドワイズマンとグレートマザーである。
自我とシャドウとアニマかアニムスでチームを組み、オールドワイズマンの審判で、グレートマザーのコートから逸脱しなければ、バドミントンは永遠だ。
私にとって、バドミントンは分析心理学への理解あるいは誤解を深めてくれるいい体験になっていると思っている。
体育館自体が実は、グレートマザーそのものなのかもしれない。