バドミントン

大抵の努力は報われないということになれば、誰も努力などしない。努力しなさいと言うことに説得力がないからだ。
大抵の人が努力しないとしたら、大抵の努力は報われないからだろう。これは、予定説と似ている。予定説を簡単にいえば、全ては、神の予定通りなのだから、人間がどうこう努力したところで、無意味という説である。
でも、たまに努力する人がいる。そんなことをしても「ロク」なことが待っていないのにである。また、この努力した人の中のさらに少数の人が、「成功」する。そういう風に予定されていたのだろう。
当然、「珍しい」のでニュースになる。
教科書にのる。
努力すると成功により報われるのだと宣伝する必要がある。
では、努力は何によって報われるべきなのか?
お金?、名誉?、地位?、安定?、人気?メダル?
上記の中に正解はない!
正解は、努力は、努力そのものによって報われるべきなのだ。
努力の後に、時間差でご褒美をいただくのでは、なにかと手違いが起こりやすい。しかも「たるい」ではないか!
私は、スポーツを通じて、特にバドミントンでほぼ決定的にそう確信した。
確かに、すべての努力は報われる。ただし、それが「スポーツ」である場合に限る。
スポーツが「勝利」という報酬を用意しているというのは、大きな間違いだ。勝利や敗北は、スポーツの単なる中断しか意味しない。あるいはスポーツの失敗である。全くどうでもいいことだといってもいい。
スポーツの勝ち負けにこだわるヤツは、努力の何たるかを何も分かっていないのだ。