バドミントン

マックス・ウェーバーは、wikによると予定説を信奉する人たちが、資本主義を発達させたとしている。以下、引用する。
予定説によれば、「救済が与れるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。現世でどう生きようとも救済される者は予め決まっているというのであるなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする者もありうるはずだ。しかし人々は実際には、「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」だが、この単語には「職業」という意味もある)を務めて成功する人間のはずである」という思想を持った。そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、という論理である。」
あまりに有名な論理なので、ご存知の方も多いと思う。
一生懸命仕事をし、成功しても、なお一層忙しく働く「成功者」の傾向を予定説に対する解釈と上手くリンクさせていて、「なかなか」渋いと思う。
こうした求道的な禁欲性を基盤に、努力し生産効率を上げ、新製品を開発し、資本主義的な豊かさを実現したのだ。曽祖父や祖父の世代にふさわしい解釈だと思う。
 私は予定説をスポーツ的に解釈できると思う。予定説では、あらかじめ救いが決定されている。もし我々が救われるのだとするならば、それは、苦難や努力の後に救われるのではなく、苦難や努力そのものが「救い」であると言う形で与えられる。つまり、苦難は苦難ではなく
努力は努力ではないという形で与えられるのだ。
我々は、このとき救いの中にいることを確信できる。死ぬ間際まで自分が救われるか救われないか分からないなどという宙ぶらりんの恐怖は存在しない。救われるべきその時に同時に既に救済が実現しているのだ。これこそ、予定説のスポーツ的解釈だと思う。