バドミントン

バドミントンにラリーはつき物だ。
非常に興奮するし愉しいものだ。
特に我々レベルのちょっとやっている程度のバドミントンは、普通の競技としてのバドミントンと比べては、決定力がないので必然的にラリーが続きやすい。そういう意味であまり強くならない方が、バドミントンは愉しいのではないかと思っている。
先日高校野球のダイジェストで、クロスプレイの特集を見ていた。ギリギリの打球を見事にキャッチする。実に見ていて愉しいのだが、よく考えるまでもなく、我々がバドミントンで味わっている醍醐味は、このクロスプレイの連続と言えなくもない。野球では超ファインプレイであるものが、バドミントンではしょっちゅうあるといったら言いすぎだろうか。我々程度の大してうまくないプレイヤーでも文句なく「スゴイ!」というプレイがかなりの頻度で出現するのだ。絶対返せそうにないスマッシュが奇跡的にラケットにあたり、「まぐれ」としか思えないことが頻発するのだ。これは「神」が臨在しているのではとさえ思う神々しい瞬間で、誰もが思わずうなるし、当然受けるし、拍手喝さいを浴びるのだ。
逆にあまり競技として上達するとそういう瞬間は少なくなるのでないかと思う。
なにごともほどほどが一番という事なのかも知れない。
ここでもバドミントンの優位性を感じてしまうのは、もちろん贔屓目にみすぎだろう。
この愉しさは、無意識的な創作と深く関与していると思う。
分析心理学での「創造の病」と関係していると思っている。