バドミントン

少しいい加減な言葉遣いをしていると感づいたので少し、補足してみる。
私は男で、男の自我を持っている。この自我の周辺にシャドウが存在し、例えば気に障る知人とか不気味な隣人として感じられたりする存在だ。これは、実在するその人とはもちろん異なるのが通常だろう。自分と気の合う友人もある意味シャドウといってもいい。これも実在する友人とは異なる。
一方アニマであるが、これはユングでは細かく分類されているが、魅力を感じる女性には我々はアニマを感じているといっていい。それが、おばさんとか従姉妹とかの身内であったり、風俗の女性やマドンナであったりする。これも実在する女性とは実は全く関係ないことが多い。
例えば、男の自我が風俗の女性と「恋」をする場合がある。女性のほうは、男のアニマをなぞる形で「営業」「サービス」を提供しているだけだ。しかし、男の自我にはこの営業努力が「真実の愛」に見える。それは現実の女の自我を見ないで、アニマを見ていることによる。しかし、例えばお金目当てでこの2人が結婚したとしても、このアニマと現実の女の自我の間には隙間や裂け目があるので、いずれは「無理」になることが多いだろうと思われる。
恋愛ゲームにはまる場合も、このアニマやアニムスが作用していていると考えると分かりやすい。
われわれのシャドウやアニマが、実在する人の刺激によって活性化するということだ。
例えば、古いがボブサップは、黒人で筋肉隆々としている。異人さんとして、不気味な雰囲気を外見はもっている。これにより、われわれの中にあるシャドウが活性化し「魔人」として彼を見てしまう。これが、シャドウなのだ。実際のボブサップがイメージとしてのボブサップと全く異なるのは言うまでもない。確か彼は大卒で薬剤師の資格をもっているはずだ。これがリアルな彼の自我の一部だ。
だから、私が実際の女性をアニマとして解釈する場合は、めんどくさいのでアニマとして扱う。実際の女性の自我を扱う場合は、女性の自我として扱うことになる。
多かれ少なかれ、男の自我は、現実の女の自我とアニマは混同しているのではあるが、一応理念的にも実際的にも区別は可能だし、した方がいいとおもってはいる。
バドミントンで、女性と混合ダブルスをする場合この男の自我と女の自我と男のアニマと女のアニムスが基本となる。相手チームは、男の
シャドウとみなされるし、相手の女性の自我もアニマとみなすだろう。実は、これがフィードバックされ修正を受けながら変化していくのだから、要するに「記述」が混乱してくる。
ただ、最初物凄く手ごわいと思っていた相手が、「大したことないな」と思うようになるプロセスは、この現実を遊離していたアニマやアニムスが現実の自我に統合されて小さくなっていく経験と大枠で言えると思う。あるいは逆に、現実の自我が理想を実現していくプロセスともいえる。簡単にいえば、人格の統合と勝負の行方がシンクロするのだ。
こういうと私はまるで人格者のようではあるが、まそうは簡単に人格者にはなれないものだ。