バドミントン

全回の記事で観客からの支持、声援という話になった。
スポーツにとって、やはり観客の存在は重要だ。
これは、分析心理学というより、社会心理学とでも言った方がいい世界だろう。
もっと露骨に「政治」といってもいい。
スポーツの政治利用とかの話ではない。
そうではなくて、スポーツにとっての声援のもつ意味が政治にとっての「支持」を変えるということでなくてはならない。
お飾りでスポーツと文化といった寝言を聞いても仕方がない。
確かに現状は、嘆かわしいものだ。
スポーツの教育的効果とか文化的意義とかスポーツの政治利用や宗教利用、企業の販売促進利用など実にスポーツへの差別的扱いには辟易している。
常に逆でしょと言いたくなる。
出来の悪いスポーツマンやウーマンが教師になり政治家になり宗教家になり企業家になるのなら、まだ分かる。出来の悪いスポーツマンヤウーマンが医者になり学者になり弁護士になるというのなら致しかたないと思う。
それを筋肉バカがスポーツしかできない。他にやる事ないんでしょ。などという考えられない現状に甘んじているのが面白くないのだ。
元メダリストが政治家になるのは結構なことだが、人気取りと数合わせでは意味がない。
政治を真の意味でスポーツ化して欲しいと思う。
小沢よりやわらちゃんになら、日本の刷新など極めて容易なスポーツでしかないと思う。
イチローなら世界の刷新など極めて容易なスポーツではないかと思う。
ところが、そうはならない。
それがとても不思議なのだ。
スポーツがスポーツでしかないことが、不思議なのだ。
ひょっとして、「言葉」が足りないのではないか?
圧倒的に言葉が足りないのではないか?