バドミントン

昨日もバドミントンをやった。
よく、スポーツは健康のためといわれる。
実は、これが結構気に喰わない。
まるで、健康という至高の目的を達成するための手段のようではないか?
むしろ、スポーツをやるための前提が健康にしか過ぎない。
健康であれば、スポーツをやってもやらなくてもよろしいというのが、今ひとつなのだ。
もちろん、義務として強制として苦役としてスポーツを奨励したいわけでは全然ない。スポーツは、汗をかくので嫌いとか、日焼けするので嫌いとか別にかまわない。
それはそれで、別に問題ではない。
スポーツは健康とは独立した価値を持っているということを主張したいだけだ。
いや、病気の治療としてのスポーツというのもあるから、健康はスポーツの前提でさえない。
要するに、関係ないというか独立しているのだ。
一応そういうことにしておく。
オリンピックが東京開催で、スポーツエリートの養成が問題になっている。予算とかスタッフとかコーチングに力を入れ、メダルをとり、国威発揚やら景気浮揚に役立てようということのようだ。
トップアスリートにレベルを上げるのはいいことだし、それはそれでいいのだが、スポーツのやる側がそれに「協力」するというのがなんとも気に喰わない。
スポーツがリーダーとなって先導すべきだと思っている私にとって、むしろろスポーツエリートよりエリートのスポーツとでもいうものを定着させるべきではないかと思う。
スポーツは現代の難問をある種のやりかたで解決しているというあるいは、ヒントを与えているということが前提ではある。
だからこそ、難問に挑戦するエリートこそスポーツをやるべきだという主張である。
このことを明白に提示できれば面白かろうと「夢想」しているのだ。