バドミントン

先生や指導者やスタープレイヤーに対する宗教的な崇拝というのは、自然な感じがする。それは、彼等を通して神との同値関係を実感できるからだ。
神との合一は、別の角度から言えば「死」でもある。
スポーツで生物として死ぬのはもちろん例外的な事態であり、あくまでも比喩でしかないのだが、スポーツにおける負けや失敗や判断ミスや未熟つまり「弱さ」を「死」と同値とみなせば、納得できるのではないかと思う。
だから、スポーツ観戦とは近代における「宗教儀礼」と言えると思う。
近代が「死」を人々の眼前から一掃したのだが、スポーツによりある意味死を大々的に復活させているように思う。
そういう意味でも「スポーツ」は、人間の中核に位置した活動だと結論してもいいだろう。
葬式やお墓だけに「死」が閉じこめられているわけではない。