バドミントン

昨日もバドミントンをやった。
子供に教えているのだが、結構上手になってきた。
力もつき、背も徐々に高くなるのも面白い。
バドミントンで勝つとは、相手コートにシャトルを接地させることだ。
これが神との合一である。
この神との合一に対して全力で抵抗し、ある意味神を我々から遠ざけているのが相手のプレイヤーである。
見方を変えれば、彼等は敵から神を守っているともいえる。
分析心理学的に言えば、良き母との一体化だろう。
ここで同値律との対応関係を考える。
登場人物は、味方と敵とコートとする。

味方がサービスを始める。バドミントンでは、このサービスは余程のことがない限り、自分の所に必ず帰ってくる。これが勝負の出発点だ。これを反射律と考える。鏡のように自分が映し出されると思えばいい。正直、この段階で勝負が決まることはない。しかめ面をすればしかめ面、笑えば笑い顔が帰ってくる。
ラカンはいい加減にしか理解していないが、鏡像段階というヤツだ。
次からは、ラリーが始まる。これは、対称律と対応させる。攻防といってもいい。攻めていたと思ったら、攻められている。ある意味必要条件で答えを絞り込むプロセスと似ている。必要条件を追加していつか必要十分にならないかなとか、思いつく限りの手段をマシンガンのように繰り出し、どれか当たってくれないかというのとも似ている。シャドウとの戦いともいえるかな?
そして、この対称律の段階を乗り越えるとやっと、推移律へと移行できる。
相手は、よれよれで切り崩され守勢に立たされるのだ。そして、次の瞬間、相手は眼前から消え敵のコートが手を広げて我々のシャトルを祝福してくれる。味方⇔敵 敵⇔コート 味方⇔コートである。敵は味方と同一化し、全ての差異や分節は消える。ノーサイドだ。
スポーツは全てこういう構造をもっているのだから、別に面白くもないし目新しくもないと思う人もいるだろう。
ところが、これが汲めども尽きぬ価値と創造とインスピレーションの宝庫なのだ。
もっと言えば、これが創造の秘密、価値の創造、宗教の本質、真実の生産の秘密なのだ。

神が宗教臭くて嫌なら、「真実」でもいいよ。
同じことだから。