続アメリカと銃

こそ泥がナイフを持って入っきた。日本だと、「ドロボー」と騒ぐとこそ泥は逃げるかもしれないし、襲ってくるかもしれない。ナイフを持っている方が断然優位だろう。もっとも、この優位を利用してナイフで脅すだけで、被害はお金だけで済むかもしれない。こそ泥には殺人までの動機はないのだから。
これがアメリカだと両方が銃を持っている可能性が高い。この点では、同等だ。こそ泥が潜在的には強盗殺人になりやすい。被害者の方も「正当防衛」で相手を殺傷する可能性があり、こそ泥は「用心のため」銃を携帯するだろうから。
ナイフと銃の殺傷能力の違いが、単なるこそ泥と被害者の関係を強盗殺人と正当防衛の関係に変えてしまう。
経済的な損失で済む話が、命のやり取りになっている。
アメリカでは死刑は廃止の方向にあるのだが、市民レベルでは「死刑死刑死刑」のオンパレードであり、昨年12月14日にアメリカ合衆国コネティカット州ニュータウンで発生した銃乱射事件では罪の無い小学一年生20人と教師6人が変質者により「死刑」判決を受け、直ちに実行されているともいえる。犯人は自殺した。警察も司法も手の届かないところで始まり、終わった。
司法のインフレーションとでも言う事態が恒常化している。別な言葉で言えば、司法の「平等化」である。陪審員制度もこの延長線上で理解できる。
国家的な銃規制以外にこの司法のインフレーションを止める手段はないのだが、南北戦争の後からさらに戦国時代を経て覇者を決め、その覇者が武器の独占を実行するという歴史的なプロセスを「飛び級」しているアメリカでは、全国的な銃規制を実現できるだけの絶対権力が構成できないように見える。歴代大統領の無力は明白だろう。