続アメリカと銃

 死刑の執行が行われた。法務大臣は死刑判決確定後、六ヶ月以内に死刑を執行することになっている。もし、法務大臣がこの法律を遵守しない場合、司法権に対する行政権の侵害であり、三権分立の根幹を揺るがす大問題である。さらに、言えば、たとえ法務大臣死刑廃止に賛成でも、死刑の執行を故意に延ばすことは許されない。
 刑が確定している以上、その刑を速やかに執行することが行政の役割であるという位置づけだ。
まして、国民の85パーセントが死刑を支持しているのだから、これは民意でもある。
 死刑囚は速やかに処刑すべきなのだ。イメージが大事な政治家は、当然嫌がるのは想像に難くない。うまいこと誤魔化して、刑の執行を遅らせてきたのが現状である。
 日本で自殺を選択する人が多い。自殺を超法規的死刑と考えると、これは法律以前の「道徳」、「倫理」、「恥」、「世間体」、「見栄」といった慣習の拘束力が強く、それに対する「違反」や「逸脱」に対して、非常に簡単に「死刑」判決を下してしまう。
 日本では、逸脱行為に対して、第一選択が自殺である。
 法律で裁かれるぐらいなら、自ら死んだ方が遥かにましなのだ。
 過労で死ぬことはないし、リストラで死ぬことはないし、借金で死ぬこともないし、離婚やら失恋で死ぬ事はないにも関わらず、死ぬ。
 実に誇り高い民族だといえる。自殺することにより、彼等は日本人の誇り、自負を守って死んだといえる。
恥を知る「日本人」として死んだのだ。彼等は自殺をしたが、日本人として死んだと言える。だからこそ、日本人の多くは「自殺」した人間にある種の負い目を感じるのだ。何とか死なずにすむ方策があったのではないのかと?そのくせ、自らの「道徳」の苛烈さには気が付かない。
 ここから、殺人を犯す人間に対する「死刑」存続の支持が導きだされる。彼等は、日本人としての誇りさえ失いあろうことか殺人を犯したにも関わらず、のうのうと生きている。恥知らずな連中だ。もはや、極刑で臨むしかない。
 かくして、わが国では、死刑制度存続は民意であり、自殺は多発する。