バドミントン

ちょっと,追記する。
前にバドミントンのプレイを同値律と対応させた。
味方⇔敵 敵⇔コート 味方⇔コート(勝利、真実、神)
という同値律のなかの推移律では、敵によって媒介されることにより、味方とコートとの同値化が起きている。さらに言えば、敵味方の差異が消滅している。
このことを、敵による勝利の媒介と呼ぶことにしている。
このやり方しか存在しない。
同値律は容易に無意識化されて、実在化する。
だから、スポーツの世界には「神」が多数存在してしまうのだ。

バドミントン

今村 仁司のことなど皆忘れたと思うが、彼には貨幣形式に対する原理的考察がある。
なぜ、貨幣は貨幣なのかという考察である。
貨幣が商品交換を媒介するという当たり前のことが、なぜ可能なのかが「謎」なのだ。
とりわけ謎めいているのは、「貨幣」が「お墓」と同じ現象という視点だろう。
あまりに唐突だし、説明されても何だかな?という感じがしていた。
しかし、彼の言っていることをスポーツで考えると意外なほど自然だと気がついた。
バドミントンをやる。
これは、経済活動ではない。
プロスポーツは経済活動ではあるが、相手選手をお金で買収して勝ちを買うことは当然許されていない。
八百長として厳しく禁じられている。
プレイの中には貨幣は入り込まないのが原則だろう。
社交の世界でも同じことがいえる。
接待ゴルフでわざと負けるとか言うことは、もちろんスポーツとしてのゴルフとは関係ないことは言うまでもない。
そういう意味で、オリンピックがプロ化されても、スポーツがお金次第で何とかなるといえるほどではない。もっとも、経済的な支援が結局は重要であることは間違いいないのではある、それはまた別の問題だ。
さて、それでは、スポーツにおいて、勝者に勝利の女神を媒介してくれる貨幣に代わるものとはなんだろうか?
明らかに、敵である。勝利の女神を守護している「敵」を殺しててその死体の山を踏み越えて、勝利の女神と一体化するのだ。このとき、この戦場からはさっき殺したはずの敵も死体の山も綺麗さっぱり視界から消えうせている。
どこまでも透明な世界が広がる。
このプロセスが、我々の貨幣形式の原初形態だ。
常に敵を撃破できるわけではない。そのときは、自分が殺される。敵との闘争では、自分の一部を殺して相手を殺すことも当たり前なのだから、この闘争が禁欲的であったり、理性的であることはむしろ必須だろう。
ちなみに、お墓はこの世とあの世を「媒介」する。貨幣は商品と消費者を媒介する。マスコミは視聴者と真実を媒介する。媒介とは、それ自体は透明ものと思われている。
しかし、実はそれどころではないとんでもないんだよという話がしたい。
スポーツの経験は、貨幣形式について、さらに興味深い視点を与えてくれるように思う。

バドミントン

昨日もバドミントンをやった。
子供に教えているのだが、結構上手になってきた。
力もつき、背も徐々に高くなるのも面白い。
バドミントンで勝つとは、相手コートにシャトルを接地させることだ。
これが神との合一である。
この神との合一に対して全力で抵抗し、ある意味神を我々から遠ざけているのが相手のプレイヤーである。
見方を変えれば、彼等は敵から神を守っているともいえる。
分析心理学的に言えば、良き母との一体化だろう。
ここで同値律との対応関係を考える。
登場人物は、味方と敵とコートとする。

味方がサービスを始める。バドミントンでは、このサービスは余程のことがない限り、自分の所に必ず帰ってくる。これが勝負の出発点だ。これを反射律と考える。鏡のように自分が映し出されると思えばいい。正直、この段階で勝負が決まることはない。しかめ面をすればしかめ面、笑えば笑い顔が帰ってくる。
ラカンはいい加減にしか理解していないが、鏡像段階というヤツだ。
次からは、ラリーが始まる。これは、対称律と対応させる。攻防といってもいい。攻めていたと思ったら、攻められている。ある意味必要条件で答えを絞り込むプロセスと似ている。必要条件を追加していつか必要十分にならないかなとか、思いつく限りの手段をマシンガンのように繰り出し、どれか当たってくれないかというのとも似ている。シャドウとの戦いともいえるかな?
そして、この対称律の段階を乗り越えるとやっと、推移律へと移行できる。
相手は、よれよれで切り崩され守勢に立たされるのだ。そして、次の瞬間、相手は眼前から消え敵のコートが手を広げて我々のシャトルを祝福してくれる。味方⇔敵 敵⇔コート 味方⇔コートである。敵は味方と同一化し、全ての差異や分節は消える。ノーサイドだ。
スポーツは全てこういう構造をもっているのだから、別に面白くもないし目新しくもないと思う人もいるだろう。
ところが、これが汲めども尽きぬ価値と創造とインスピレーションの宝庫なのだ。
もっと言えば、これが創造の秘密、価値の創造、宗教の本質、真実の生産の秘密なのだ。

神が宗教臭くて嫌なら、「真実」でもいいよ。
同じことだから。

バドミントン

スポーツにおける死は「勝てない弱さ」として現れる。
スポーツでは弱くても、長生きしている人はむしろ多いだろうからスポーツにおける「死」が普通の生活における定義ではないことは間違いないだろう。
限られた空間とルールと時間のなかで、ひたすら弱さを排除する活動に専念している。弱さを排除できないと敗北という死の予感に怯えることになる。
限られた時間に、限られた体力と限られた技術と限られた情報で最善手を見出さなければならない。
スポーツにとって、死は身近な存在だ。
特に我々のように弱い人間は、大抵負けるのだから、死ぬのが「普通」なのだ。
通常これを「ヤラレタ!」と表現する。

バドミントン

先生や指導者やスタープレイヤーに対する宗教的な崇拝というのは、自然な感じがする。それは、彼等を通して神との同値関係を実感できるからだ。
神との合一は、別の角度から言えば「死」でもある。
スポーツで生物として死ぬのはもちろん例外的な事態であり、あくまでも比喩でしかないのだが、スポーツにおける負けや失敗や判断ミスや未熟つまり「弱さ」を「死」と同値とみなせば、納得できるのではないかと思う。
だから、スポーツ観戦とは近代における「宗教儀礼」と言えると思う。
近代が「死」を人々の眼前から一掃したのだが、スポーツによりある意味死を大々的に復活させているように思う。
そういう意味でも「スポーツ」は、人間の中核に位置した活動だと結論してもいいだろう。
葬式やお墓だけに「死」が閉じこめられているわけではない。

バドミントン

全く唐突かもしれないが、数学で「同値関係」と言われる関係がある。いわゆる、等号の拡大あるいは拡張といわれている。まあ、概念とういうか言葉というかそういうものが一応意味を持つことが出来ることを、数学的に表現しただけのことなのでそれ自体は難しくない。むしろ簡単すぎてなぜ「ことさら」こんなことを考えるのか不思議と言えなくもない。
暗黙の前提でもあれば、無意識的な規則のようなものだ。
バドミントンをやるとこの「同値関係」の重要性がわかるようになる。同値関係を確立することがスポーツにおける「インスピレーション」とか「創造」と関係しているからだ。
すっ飛ばして言えば、
神と人との合一という宗教そのものの体験と類似した、あるいは「同値」の体験である。
最近話題のスポーツ界のイジメスキャンダルも、この「先生」や「スポーツ坊主」たちが「神」とあがめられてしまうスポーツの宗教構造つまり神=先生というスポーツ同値体験と無縁ではない。
だから、結構やっかいなのだ!
いつものことではあるが、なんか話がずれまくってきたなー

バドミントン

スポーツ評論という分野が他の評論のなかで明らかに見劣りする。
政治評論、経済評論、医学評論、文学評論、美術評論、映画評論一応プロが存在しているように思う。漫画評論も可能だろう。ところが、スポーツとなると相撲解説とか野球解説とかサッカー解説レベルになる。
ましてバドミントンなど解説さえおぼつかない。
成功した選手や監督もそのリーダーシップがせいぜい週刊誌ネタになるぐらいでそれ以上でもそれ以下でもない。
評論を可能にする資料の集積もシステムもないように思う。
最初は文学評論だって、印象批評とかゴッシプだったのだから別にそれはそれでいいのだ。
スポーツを実践している人たちが、その経験や見聞の集積のなかからある「普遍性」なり「一般性」なり「他分野への適応とか応用」を抽出できればいいだけなのだ。
スポーツは子供達に圧倒的に支持されている。
やはり、未来の世界は子供達にものなのだから、未来はスポーツ的でありえるとごく楽観的な見通しをもって進もうと思う。

それにしても、スポーツの指導者の質がなんとかならないかとつい思ってしまうね。
指導法がね、「ない」よな。